「『個性』時代の夜明けと『人間性』の定義が変わる日」に対するいくつかの疑問と感想

TamifulD氏による面白い記事「『個性』時代の夜明けと『人間性』の定義が変わる日」はもう読みましたか?

私は読みました。 読んだ上で「わずか140字しか書けないTwitterでは感想を書くことはできない」と悟りました(←当たり前)。 というわけで完全に理解できたとは思いませんが、いくつかの疑問点とともに感想をここに記しておきます。

そういう趣旨の記事なので、元記事を読んで自分なりの感想を持ってから読んでいただくことをおすすめします。 というかこの記事は完全に個人的な感想なんで、元記事を読んで各自で考えてくれれば別にこっちは読まんでええよ。

以下、「ですます調」ではなく「である調」で書いていく。 様々な予防線を張るのを忘れている箇所が多々あるかと思うが、その辺は最大限忖度して(「こいつはばかなんだな、かわいそう」と思って)読んでくれると嬉しい。

繰り返すようだが、「『個性』時代の夜明けと『人間性』の定義が変わる日」と違って、この記事はただの感想である。 こんな記事を読むよりセンター・オブ・ジ・アースのライドシステムについて調べた方がよほど有意義な時間を過ごせるだろう(過ごせるとは言ってない)。

映画やゲーム未履修問題

個人的な話で恐縮だが、実は私、以下のコンテンツを未履修である。

「対象の記事に出てくる例示の2/3が未履修ってどういうことじゃコラ」という各方面からの適切な批判が飛んできそうなところではあるが、幸い当該記事中で十分に説明されていたので本論に関係ある部分は理解できていると思いたい。

もしこの記事中に何か不備があった場合、こういった事情があることを考慮した上で意思決定されたし。

記事をまとめてみる

さて、本記事は2020/05/17現在、Think with Entertainments! 屈指の「わかりにくさ」を誇る。文中で示される内容の一部には共感を、一部には反感を、一部には困惑を覚えるだろうが、是非「解り難さへの挑戦」だと思って読んでくださると幸いだ。私もこの文章を通じて高度な思考の文章化へと挑む。いっしょに、かんがえよう。

まえがき:「解り難さへの挑戦」へ』より

というわけで早速挑戦していこう。 記事の内容を理解するため、まずは主張の流れをまとめてみる。

当該記事の核となる主張は「個性が没個性化した世界で他人と差別化するには、個性以外の『この人でなければならない』理由=個性の先にある『唯一性』が必要となる」である(と思う、たぶん)。

元記事は、最初に一見無関係な例を示して実感を持ってもらい、それらの共通点を挙げてまとめへ繋げるという「たみふる節」ともいえる構成で書かれているが、結論に至る論理の流れを順に整理すると以下のようになっている(と思う、たぶん。以下同様)。

  1. より多くの個性が発揮されるようになり「個性がある」ことが没個性化してきた
  2. テーマランドの変遷やアナ雪・スターウォーズの登場人物、ツイステにおける物語世界の設定方法には「個性の埋没に対抗する方法」が見て取れる
  3. それは個性の先にある「その人でなければならない」という唯一性であり、その要素を表現するために「人間性」という言葉を(その意味を拡張しつつ)あてがうことが出来るのではないか

「わかりにくさ」を誇っている割には明快な文章で、具象と抽象を行き来する文章を理解可能な形に収めるあたり、さすがである(わかったとは言ってない)。

いくつかの疑問点

記事を読んで私が疑問に思った点を挙げる。

テーマエリアの分類

即ち、テーマランドとは三種類存在する。「テーマ=ワード」であるものと、「テーマ=ストーリー」であるもの、「テーマ=映画」であるものだ。「テーマ=ストーリー」であるものは、さながら「テーマ=映画」と似ているようであり、自由な舞台設定が可能な点で「テーマ=ワード」に近しいものである。

テーマエリアとは何か』より

当該記事ではテーマエリアを3つに分類し、以下の表で具体的なアトラクションをも示してくれている。

テーマエリア分析表

テーマエリアとは何か』より

この表を見て私は思った。

「……複数分類にまたがるエリア、多くない?」

例えば、アラビアンコーストの脚注には「テーマ=ストーリー」型と「テーマ=映画」型の中間に位置するという分析も可能だとある。 また、ミステリアスアイランドはジュール・ベルヌの小説に出てくる世界観などをモチーフにしているが、「テーマ=映画」型と言うほど原作に縛られているわけではなく、「テーマ=ストーリー」型との中間に位置しそうなエリアだ(あくまで「しそう」なだけであることに注意)。クリッターカントリーも「南部の唄」の世界観に拠るところはあるが、大部分のストーリーは映画からの引用というよりはイマジニアによるものであろう(ここも「だろう」である)。

ではこの分類が間違っているのかというと、そういうわけではない。むしろ私はこの分析はかなり的確なものだと思っている。詳しくは「私の考え」にて後述するが、テーマエリアの特徴はグラデーション状に分布しており、各々のエリアを明確に分類できるほどはっきりとした境界がないだけなのではないかと思う。そうだとすると、この表を作るのは大変だったはずだ。

なお、当該記事の核となる主張においてはテーマエリアの分類が重要なのではなく「テーマ=キーワード」型エリアが他のタイプのエリアに「進化」することで没個性化の罠を回避していることが重要であることは強調しておく。

「人間性」という言葉

ともすれば、最早「個性があるというひとくくり」により支配された世界で私たちが取引先を選ぶ方法が「人間性」しかなくなるのである。

「この人がすき」「この人を応援したい」というような「あなたじゃなきゃだめなの」という理由を幾つか積んでいくことで、店舗や個人は客を獲得する必要がある。それは、「美女と野獣じゃなきゃだめなの」であり「レイじゃなきゃだめなの」であり「ツイステじゃなきゃだめなの」である。

こうした物事の唯一性を表現する言葉として「人間性」を使うことは出来ないだろうか。

『個性』時代の夜明けと『人間性』の定義が変わる日』より

そこは「唯一性」ではダメなのだろうか?

これは言葉の問題であり、言葉の恣意性(言葉そのものと言葉の意味の間には「必然的にそうでなければならない関係性」がないということ)を鑑みると「人間性」でも「唯一性」でも「ふにゃほげら」でもなんでもよいとは思う。だがしかし、ここでなぜ「人間性」という言葉を選んだのか。この言葉選びには筆者なりの考えが反映されているような気もするが、それがどういったものか残念ながら私にはわからなかった。ごめん。

『個性』とは何か

さて、以上の疑問は正直に言って些事である。 本論にはあまり関係がない「ぶっちゃけどーでもいい疑問」であると胸を張って言うことが出来る。 我ながら快い態度だ。

しかし、ここに一点だけ重要なポイントがある。 それは「(当該記事における)『個性』とはなにか」ということである。

本論の主張においては「個性」が洪水を起こしている時代にあっても「人間性」が「その人でなければならない理由」になりうることが示され、どうすればそれを生み出せるかがディズニーのコンテンツから窺い知ることができると示されていた。

テーマエリアであればテーマの具体化による統一感の形成によって、レイであれば「在りたい論」から真実を選んだことによって、ツイステであればディズニー映画の世界そのものを登場させないことによって、そのコンテンツの唯一性が生まれたのである、と。

しかし具体的に「個性」と「人間性」がどう異なるのか、私にはわからなかった。 もちろん「これまでのような意味における『個性』ではない強み」がありそうだという感覚は共有できたが、それが何かは具体的にイメージすることは難しかった。

これはそもそも私が「『個性』とは何か」がよくわかっていないからなのではないかと思う。 一般に「他の人とは異なる、その人独自の特徴」を「個性」と呼称しているはずだが、もしその定義をここでも用いるならば、本論で主張されている「人間性」もまた「他の人と有意に区別できるその人独自の特徴」ということになり、そこに違いを見出すことができなくなってしまう。 だが、本論はそんな単純な話ではなく、「旧来の個性」では「個性がある」という括りから抜け出すことはできないという話のはずであり、したがって当該記事における「個性」は上記のような定義の「個性」とは異なるものであろう。

もちろん、上述の「個性」の定義に承服しかねる向きもあるだろうが、私はそう思っているが故に「個性」と「人間性」の違いをわかることができなかった、ということである。 わからなかったのにこんなに胸を張って宣言するとは、我ながら快い態度だ。

私の考え

以上のまとめと疑問点をもとに、私の考えを述べる。

テーマエリアの分類

テーマエリアごとのテーマの特徴は「テーマ自体の抽象度」によってグラデーション上に配置できるのではないかと思って描いてみたのが下の図だ。

テーマの抽象度によるテーマエリアの分類

トゥモローランドや旧ファンタジーランドはテーマ自体の抽象度が高い=ふわっとしたストーリーしか無い一方、マーメイドラグーンやギャラクシーズエッジは「原作映画の世界観」を借りたことでテーマの抽象度が低く、より具体的なストーリーが設定されている。

この図のどこに線を引くかによってテーマエリアを分類できるはずだ。 だからなんだと言う話かもしれないが。

没個性化という現象

当該記事で主張されていた「個性の先にある唯一性」とは具体的に何か、ということが私にはまだわかっていない。 しかし、感覚として「その先の何か」があるはずだという予想はある。 それはなぜか。

それを解き明かすためには没個性化という現象の仕組みを考えることが重要だ。

まず、「個性」を「その人を他人と有意に区別できる、その人独自の特徴」と定義しよう。 重要なのは「区別できる」という点だ。 これは「『りんご』という音と『みかん』という音が異なることが重要であり、音そのものはなんでもいい」という言葉の性質に近いものがある。

すると、他の人と区別できない要素(例えば、あなたの体に水素原子が含まれているかどうか、など)は個性になりえないことになる。 そして、時代や情勢の変化によって「かつては個性であったがもはや個性とはいえない」特徴も生まれてくる。 和装が主流だった頃は洋装が個性であったが、時が経つにつれて洋装が一般化したことで、現代ではむしろ和装でいることが個性になってきているように。

このように、個性は変化するものである。誰かが他の人と違うことを始めてだんだんとそれが受け入れられるようになり、参入者が増えて個性ではなくなるというサイクルである。このブルーオーションとレッドオーシャンの繰り返しこそが没個性化という現象なのではないだろうか。

このような説に立つと、当該記事における「人間性」は今はまだ誰もやっていない新たな個性ということになる。 それこそ「個性の先にあるなにか」があるはずだという感覚の根拠になっているのではないかと思うのである。

おわりに

色々と書きましたが、あの記事は「ディズニーを通した社会学」という意味で大変におもしろいものだと思います。 自分は社会学も何も知らないのであらぬ方面から「素人が何様のつもりじゃ」というお叱りを受けそうなゆるーい感想ですが……。

あの記事の中で一番好きな文は「いっしょに、かんがえよう。」です。

それから、あれだけの文章をきちんとコントロール下において書けるというのはすごいですね。 私はいつも推敲するときに文章量を半分にすることを目標にしているのですが、前回の記事とこの記事は推敲を重ねた結果、書いた文章の2/3ほどが消えて成果物は草稿の1/3ほどになっていました。 わかりにくいところやうまく主眼が定まっていないところを削っただけなので、濃い文章になったわけではないのが悲しいところです。 文章がまだコントロールできていないんですね。 私もいつか過不足なくわかりやすい文章をすらすらっと書きたいものです。