東京ディズニーリゾートにおけるBGSとキャラクター主義の台頭

バックグラウンドストーリー(BGS)とキャラクターの関係について、東京ディズニーシーを題材に考えてみます。

私は、ミッキーを絡めたキャラクターを出しておけば売れるのは仕方ないなあと思いつつ、残念な気持ちになる側の人間ですのでその分はさっ引いて読んでください。

なお、記事中の用語は私が勝手に名付けたものであり、記事中で説明している以上の意図はないことを断っておきます。 また、誰かや何かを批判したり貶めたりする意図もありませんので、よろしく。

BGSとはなにか、その役割

BGSは文字通り何かしらの背景となるストーリーのことです。 ストーリーとは因果関係のことであり、「なぜ」を解消する「理由付け」であり、異なるものの間に関係性を作り上げる手段です。

例えば、一般の遊園地では「なぜジェットコースターに乗るのか」という問いに対し、回答となるストーリーを用意していないことがほとんどです。

一方、ディズニーシーのアトラクションでは、「なぜフリーフォール体験をするのか」に対して「失踪事件が起きたホテルを見学するツアーでのアクシデント」というBGSがあったり、「なぜ海底で人間が人魚のコンサートを鑑賞するのか」に対して「アリエルのデビューコンサートにトリトン王が人間を招いた」というBGSがあったりします。 また、アトラクションに限らず「なぜここに屋台があるのか」に対して「とある考古学者チームが乗り捨てていったトラックを使って商売を始めたから」というストーリーが、「なぜここにミッキーたちがいるのか」に対して「遺跡や自然の調査で来ている」というストーリーが用意されています。

また、レイジング・スピリッツとロストリバー・デルタを結びつけているのもBGSです。 ただのジェットコースターであるレイジング・スピリッツの舞台を遺跡発掘サイトとすることで、中南米のジャングルという設定のエリアであるロストリバー・デルタとの間に「つながり」を作っています。

これらBGSを用意することによって得られるものは「雰囲気」と「統一感」です。

「落差30mのフリーフォールです」というのと「謎の偶像の呪いによる失踪事件が起きたホテルを見学するツアーに参加し、業務用エレベータに乗車中にアクシデントが……云々」というのでは情報量が全く違います。 その圧倒的なまでの情報量はストーリーに沿ったプロップス(小物)やそのストーリーを補足するプレショーといった形で表現され、ゲストにそのアトラクションの「雰囲気」を伝えます。 前述のタワー・オブ・テラー(ToT)の例では実際にフリーフォールを体験するまでに多くの人が「おどろおどろしい雰囲気」を感じ取り、どんな体験が待っているのかと期待することでしょう。

もちろん「このアトラクションで伝えたいのはおどろおどろしい雰囲気です」と解説した看板をフリーフォールの乗り場に掲げることもできますが、それは野暮というもの。 文学作品と同じで、直接的に言葉にするよりも雰囲気を示すほうが実感として伝わりやすいのです。

テーマパークはあるテーマに基づいて展開している遊戯施設と定義することができますが、その一貫性を担保しているのもBGSです。 前述の通り、BGSを用意すれば全く関係がないものの間に新たな関係性を構築でき、一貫性を失わずに済みます。

中にはこじつけとしか言えないようなものもありますが……

キャラクターとはなにか

多くのストーリーにはキャラクターが付きものです。 ToTのストーリーにも「ハリソン・ハイタワー3世」「ベアトリス・ローズ・エンディコット」など個性的なキャラクターがたくさん登場してきます。

これらキャラクターは因果関係の起点になると同時に、ストーリーの受け手が感情移入する対象にもなります。

例えば、ToTにおいてはハリソン・ハイタワー3世が物語の中心で、彼が偶像を手に入れたことがストーリーの起点となります。 同時に、アトラクションを訪れたゲストは彼と同じ体験をするであろうことを暗示され、呪いの恐怖に慄く彼に多少なりとも感情移入します。

キャラクターがいることによりストーリーを展開し、伝えたい雰囲気をより伝えることができるのです。 そして、感情移入しやすいが故にファンもつきやすくなります。 漫画や小説で「ストーリーよりキャラクター」と言われるのは良い例でしょう。

ラベリングとキャラクター主義

複雑化する社会とラベリング

人間がある情報を処理しようとするとき、対象が複雑な場合には「ラベリング(レッテル貼り)」というある種の単純化が図られます。 その背後にある複雑な現実世界を縮約することで、その情報を処理しやすくする脳の働きです。 ラベルを貼って抽象化し、まとめてしまうことで整理がしやすくなるのです。 これはどちらが良い・悪いということではありません。

「男のDオタは出会い目的」「ディズニー好きはキャラクター好き」「年パス持ちはガチ勢」などは良い例でしょう。 「Dオタ」というラベルや「ガチ勢」といったラベルを用いることでそこに共通の属性や特徴を抽出し、高速に処理が可能な既知のパターンに当てはめやすくしています。

特に、現代社会は情報社会だと言われ、技術の発達に伴って膨大な情報を浴びて人々は暮らしています。 これまでの情報量とは比較にならないほど膨大な量の情報は、人間の脳の発達速度を大幅に超えてさらに増加しています。 それに伴ってラベリングはより加速しているように感じます。 増え続ける大量の情報を高速に処理するには、とにかくラベルを貼って次々に既知のパターンに当てはめていくか、情報を遮断するしかないのです。

この記事でさえ「物事を単純化して捉える」という現象に「ラベリング」という名前をつけるというラベリングをしています。 複雑な世界をありのままに理解しようなど、人間の脳には到底出来ることではないのかもしれません。

キャラクター主義

さて、ラベリングは常に起こっています。 それはBGSやキャラクターにおいても同様です。

キャラクター主義とはキャラクターを一種のラベルとして用いることで発生する、「キャラクターがそこにいればそれで十分だ」とする考え方のことです。 ディズニーとは特に関係がないうさぎのぬいぐるみに「ミッキーが出てくるBGSを持つテディベアの友だち」というBGSをつけただけで「ディズニーのぬいぐるみ」として認識されるようになる現象はキャラクター主義の結果と言えます。 BGSがジェットコースターとジャングルのエリアを結びつけたように、キャラクター(ここではミッキー)がぬいぐるみとディズニーという概念を結びつけているのです。

しかしここではストーリーの内容はもはや重要ではなくなり、結び付けられてさえいればあとはどうでもよくなっています。 ストーリーやキャラクターはもともと理由付けであったのに、その理由がどんなものかが考慮されなくなってきているということです。 ステラ・ルーは「ミッキーに送られたテディベアの友だち」として登場しましたが、BGSは他に比べると深く用意されていません。 レイジングスピリッツの例になぞらえると「レイジングスピリッツは(なぜかは知らないけど)ジャングルにあります」という程度の、BGSと言えるかすら微妙な理由付けです。 このように、キャラクター主義においては「関係性があること」が確認できれば「どう結び付けられているか」は問題ではなくなります。 つながりがどうであれミッキー・マウスという強いアイコンがあることで、そのコンテンツにディズニーらしさを感じることが出来るからです。

アウト・オブ・シャドウランドとうさぴよ

例として、アウト・オブ・シャドウランドとうさぴよを対比しながら挙げてみましょう。

個人的にはアウト・オブ・シャドウランドのストーリーは確かに酷い出来だったとは思いますが、もしあのショーがストーリーの出来で酷評されるなら、うさぴよも同様に酷評されてもいいはずだと思います。 しかし実際はストーリーには難ありとする人がいつつもなんだかんだで多くの人がうさぴよを見に集まっています。

この2つのショーの違いは、うさぴよがミッキーとのつながりを(どういったつながりかは一切不明ですが)持っていた一方でメイやユウにはミッキーたちとのつながりが全くないというところにあります。 すべてがそのせいだとは言えませんが、あそこまで明確にうさぴよとの集客数の差がついてしまった背景にはキャラクター主義があり、ディズニーとのつながりが示されていたうさぴよは好評で、そのつながりがまったくないアウト・オブ・シャドウランドは閑散としてしまったのではないでしょうか。

これは別にアウト・オブ・シャドウランドやうさぴよに限ったことではなく、ディズニーのあらゆるエンターテイメントにおいて「ミッキーがでている」ということが非常に重要であり、最近はその傾向が特に顕著になってきているのではないかと思います。

つまり、今後チャンドゥやアレッタをメインに据えたショーを開催しても「ミッキーが出てくるかどうか」で評価が(少なくとも集客は)変わる可能性があるということです。 結局コネなのか……

おわりに

『ディズニーランドの社会学』を読んだことを直接のきっかけとして、昨今(?)よく言われている「キャラクター偏重」の背景について思っていたことをまとめてみました。 ディズニーに限らず、社会が複雑化するに伴い情報の単純化を行う傾向が強まっているのはよく言われていることですね。

キャラクター偏重については今後もある程度この傾向が続くのではないかと考えていますが、その一方でソアリンなど「イマジニア臭」が残るコンテンツもありますので、それらを乞食のように集めて大切にしながら生きていこうと思っています(大げさ)。

最後に、文章を読むのは好きですが書くのは苦手なのでうまく形にできていない部分も多いですと言い訳をしておきます。